妄想シネマ

妄想都市計画

呼吸の単位

 

 

 

 

僕にはどうにもわからないことがあった。

    

次停まる駅は大橋だと車両内にアナウンスが流れる。

電車に乗ってから2つほど大きく栄えた駅を通過したため、僕は満席になったロングシートのほぼ中央に鎮座していた。

スマートフォンを触ったり、手帳でスケジュールを確認すると、視界に「どこに売ってるんですか?」カラーの小さいズックがチラチラと入り込む。

そのわずか膝下からの容姿だけで、安易に老婆だとわかった。僕は顔を上げて初めて彼女の顔を確認した。

どこを見ているかもわからない目線と、形容しがたい造形物の様な質感の皮膚、口紅は唇の範囲を大きく超え、子供の書いた縁を無視した塗り絵の様だった。彼女のルージュはきっと太いのだろう。

その顔を眺めていると、僕と歳がそう変わらないサラリーマンが彼女に席を譲った。

そして彼は僕を見る。その表情が何を意味するかは分かった。

僕は今責められているのだろう。僕は老婆の事を考えていた。今日は何をしたのだろうか、どこから帰ってきたのか、もしくは向かっているのか。

足腰は丈夫だろうか、杖もカートもない辺り、自信があるのだろうか、人の体温は苦手じゃないだろうか、僕の尻の温もりが残るシートは嫌じゃないだろうか。

    

結局僕は終点の天神駅まで、腰を上げることはなかった。

    

     

夕暮れの大きな駅の雑踏の中に身を隠し、僕はカフェに向かった。帰社するべきなんだろうが、商談の成立を確信してカバンにいれた契約書は署名も捺印もないままで、言い訳の1つもないと帰れる状態ではない。

    

    

初めて入るチェーン店のカフェに着くと、注文カウンターは混雑していた。

思えば今日は朝からカフェインとニコチンしか体に与えていないので、なにかパンでも、と自分の番が来るのを待った。

    

客足は絶えず、僕の後ろに行列ができた。

やっと順番が回ってきたので、メニューに目を通すと、カタカナで書かれたパンは何が何味か全くわからなかった。全部素材とソースの味だけで構成されたメニューならいいのに。

理解できないメニューと、自分の後ろに並ぶ人たちが融合されて召喚されたカードは

アメリカン、一番小さいやつで」だった。

     

     

タバコが吸える2階へ移動する。

階段でコーヒーをこぼさず運ぶ能力は持ち合わせておらず、席に着いた時にはカップ受けの皿に溢れたコーヒーが溜まっていた。

灰皿を取りに行くついでに紙ナプキンを3枚取り、溢れたコーヒーを拭きながら考えた。

僕はこれのことを紙ナプキンと呼ぶけど、女性とこのカフェに来たとして、これをなんと呼べばいいのか。

ティッシュ」と言うには素材が柔らかくなく、「紙」と言うのも伝わりづらい。

「紙ナプキン取って来て」僕はそう言えるだろうか。

    

気付けばコーヒーも吹き終わり、カップの縁には溢れたコーヒーが熱で乾燥し跡になっていた。

丁寧にそこへ口をつけ一口目のコーヒーを飲んだ。

コーヒーの味はしなかった。ただ香りだけが口と鼻に残り、切れかけていた思考の力はプツンと切れて、僕はひたすらにタバコの煙を吐いてはコーヒーを啜った。

     

「よし」と口に出して、自分に鞭を入れるが効き目はコーヒーの様に薄い。

まず、なんで今日の商談が上手くいかなかったのかをぼんやりと考えた。

キツネの様な顔をした経理のタヌキの顔を思い出す。

「ごめんねー」の安い一言で消え去った、依頼されていた資料と契約。笑うキツネの顔には詫びのカケラは見つけられない。取りつく島もなく退出を余儀なくされ立ち尽くした。

     

     

反省は簡単で、キツネの言語もわからずに信用しすぎた自分のせいだとすぐにわかった。

     

この件に関しては考えるのをやめ、他の見込み客を探して、どうにか帰社した瞬間の処刑だけは免れようとファイルの中から免罪符を探した。

    

     

トイレに行きたくなったが、カバンの扱いに困った。

カバンを持っていけば、僕がこの席にいるという証明はテーブルの上の三分の一程残ったコーヒーと灰皿だけになる。

片付けられてはしまわないだろうか。かといってカバンを置いていけば盗られたら大変な事になる。重要書類だけトイレに持ち込むわけにもいかない。

悩んだ末、コーヒーを全て飲み干し、カバンを持ってトイレに向かった。

     

    

トイレのドアを開けると、僕は便器に座る中年の男性と目があった。

このトイレは個室で、便器は1つだ。仲良く並びションスタイルのものではない。

僕は中年の男性と目があった。

何も考えず言葉が先に出る「すみません」そう告げトイレのドアを閉めた。

     

ドアの前で待ちながら、昔逆の立場で同じことがあったのを思い出す。

僕が鍵を閉め忘れ、中に入って来た初老の男性は驚いていたし、僕も驚いた。

そして同じ様に僕の口から出た言葉は「すみません」だったのだ。

違うのは、初老の男性にその後トイレから出た際、鍵を閉めてないことを怒鳴られたことだった。

     

同じ立場になって思うが、そこまで怒るほどの不快感は無かった。きっとあの老人は、妻の口紅の塗り方が下手で虫の居所が悪かったのだろう。

目の前のドアが開き、中年の男性が用を足し終えて出て来た。

彼は僕ととても近い距離まで近づいて来て

「おまえさ、ノックくらいできないのかよ!」とまたしても怒鳴られた。

驚いたのは、次の瞬間彼は壁に叩きつけられ、その場にへたり込んだ。

自分でも何が起きたかわからなかった。ただ彼の胸ぐらを掴んだ時のネクタイの感触は右手に残っていた。

「あ、すいません」とまた謝ってしまい、起こそうと手を差し出したが、中年の男性は舌打ちと共に一階へと消えていった。

    

    

心臓の早い鼓動を聞きながら用をたす。

彼はきっと恥ずかしかったんだと思う。僕も同じことをした時、確かに恥ずかしかったし、それを怒ることで消化しようと中年の男性は判断したのだ。その判断の正誤は僕にはわからない。

席に戻ると空にしたカップと灰皿は綺麗に片付けられていて、もう席に戻ることを許されない様な気がして店を出た。

      

帰社する途中、ビルの谷間に沈みかけた夕日がとても大きく見えたので、写真に収めようとケータイのカメラを構えたけど、道の真ん中に立った僕を避けてる歩行者に気が付き、シャッターを切ることなく再び歩き始めた。

    

    

ただどうしても会社に戻るのが億劫になり、用もないのにビルの一階に入っているコンビニに入った。

いつもの習慣か、先ほどカフェに行ったことを記憶することもできないほどにバカなのか。缶コーヒーとタバコを買った僕は、コンビニの灰皿の横に立っていた。

     

     

買ったタバコをカバンにしまい、今まで持ってたタバコの箱を開くと、中にはまだぎっしりとタバコが詰まっていて、物の管理能力も無いのかと自分を責めた。

    

缶コーヒーを飲み、一呼吸置いてタバコに火をつけた。

そういえば、一呼吸は吸ったら「1回」なのか、それとも吐いたら「1回」なのか。

もしくは吸って吐いて往復したら「1回」か。

似た言葉で一息つくというものがある。あれは吐いたら「1」カウントか、呼吸は「吸う」という字が入るあたり吸わなければ反則なのだろうか。僕にはわからなかった。

    

幼少の頃、夜に眠れないことが多かった気がする。

周りの家族が続々と眠りに就く中、自分だけが取り残され天井の蛍光灯を眺めながら一人焦っていた。

冷蔵庫の擬音化しにくい音を聞きながら、周りと同じように上手く眠れない自分を恨んだ。

      

そんな日は決まって呼吸の仕方が分からなくなり、自然にできなくなる。

息を止めると苦しいから、人がご飯を食べるように、人が階段を登るように、僕は行為として息をしていた。

僕は何も出来ないのだ。人が自然に出来ることを、考えて、悩んで、自ら行動として所作に移らないと出来ない。

側から見れば、それは「出来ている」と何も変わらないのかもしれないけど、みんなモーターで動いてる中、同じ動きをあたかもモーターを積んでいるフリをしながら人力で動かしている。

    

20歳を超えても僕は未だ、今後も息をし続けられるのかということに不安を覚える。

     

     

目の前を過ぎていく沢山の人達へ尊敬と軽蔑が混ざった視線をねっとりと付けていた。

   

     

胸ポケットに入れたケータイが震え、電話に出ると先ほどのキツネが、僕のわかる言葉で「やっぱり契約したいんですが・・」と申し訳なさそうに伝えてきた。

キツネに今から向かう旨を伝え、印鑑の準備を少し高圧的にお願いした。

     

夕日を背に浴びながら僕は契約をもらう為再度駅方面に向かう。

ふと、前を歩く女性のカバンからハンカチが落ちた。

拾って彼女の肩を叩き「落としましたよ」と微笑んだ自分の顔を、僕はきっと知らない。

今の僕は何も考えず、老婆に席を譲ってしまうだろう。

 


    

 

10年前の天神で、こんなことを思っていた。30歳になったがまだ生きている。